「村を育てる学力」

東井義男著 ほるぷ出版 からの引用

 

こどものいのちにふれてやれないようなものが、こどものいのちに影響を与えていけたりする道理がない。

それではわたしはどうすればいいのか。

わたしは、ほんものになるより道はない、と考える。

子どもたちが母親を慕うのは、それがほんものだからだ。

 

世の中にも「ほんもの」でないおかあさんがよくいる。

それでは、「ほんもの」と「にせもの」のちがいがあるのだろうか。

ほんものとにせものは、生みの親であるかどうかによって区別されるのであろうか。

ところが、ほんものとにせものは、生んだかどうかのちがいではないようだ。

それなら、これを区別するものさしは何であろうか。

 

近頃、わたしは、このものさしとして、親鸞の言葉を借りることにしている。

本物の仏様は「凡聖逆謗斉廻入・如衆水入海一味」だといっている。

 

一生懸命お祈りをしなければご利益をくださらないような仏様、たくさんお供え物をあげなければご利益をくださらないような仏様は、私たちの真実の仏様ではない、と言っているのである。

 

相手がばかであろうが、利口ぶった輩であろうが、五逆罪を犯すような仕方のない奴であろうが、真理に仇をなすような困ったものであろうが、祈ろうが祈るまいが、供えようが供えまいが、救わずにはおれないという願いに生きるもの、それが真実の仏様だと言っているのだ。

 

そう言われてみると、ほんとにそうだ、と思う。

 

ほんとうの親は、自分の子どもが、でこであろうが、はなぺちゃであろうが、利口であろうがばかであろうが、いうことをよく聞く子であろうがいうことを聞かない子であろうが、ひたすら子どもの上を思いわずらう。

その「ほんものさ」を子どもは本能的に感じ取って、母親を慕うのだ。

そして、なかなかいうことを聞かないわんぱくものがこの「ほんもの」にふれて、ときにホロリとし、いい子に育っていくのだ。

★zekkoutyou

「ほんもの」を目指して精進していくためには、何が「ほんもの」であるか知らなく手はなりません。

 

どんな子であろうが、「ひたすら子どもの上を思いわずらう」。

それを 子どもが本能的に感じ取られるほどに。