「教師のための叱る作法」より

叱る作法  参考文献「教師のための叱る作法 野口 芳宏著」

≪公明正大に叱る≫

 近頃は子どもを叱ると「あの先生は厳しすぎる」などと保護者に曲会されることもありうる、難しい時代です。しかし、トラブルになるかもしれないとひるみ、叱らないというのは、保身の原理であり、節操がありません。教師としては叱るべき時は叱るという不退転の覚悟が必要です。

 

・叱る基準を定める  トラブルになりやすいのは、叱る基準が定まっていないとき。叱り方の原則は、公明正大であること。そのためには自分の中に叱る基準をもち、それを明確にしておく必要があります。

 (参考) 教育基本法第一条「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」

 ここで謳われているように、社会の構成員を養成するうえで「ここはあらためるべきだ」と感じるところを叱るというのが基本になります。もっともこの表現は抽象的なので、具体的な場面では、教師がどんな人間観、教育観をもっているのかが叱る基準になります。私(以下野口先生)はどんな時も、根本、本質、原点に立ち返ることがたいせつだと考えています。つねに根本、本質、原点に立ち返ることができるならば、叱る基準がゆらぐことはありませんし、公明正大であることができるのです。

 

 ・叱る基準を明示する  叱る基準は三つあります。逆に言えば、その三つ以外では、細々としたことを煩く叱ることはほとんどありません。 

  1 「生命にかかわること」   たとえば、赤信号でも渡る、道路の真ん中を歩く、禁じられていることを面白半分に破って危ないことをすること

  2 「他人の不幸の上に自分の幸福を築くこと」 たとえば、友達をいじめて愉快がる、告げ口する、嘘をつくなど、人を貶めて自分の立場をよく使用とするのは、きわめて卑劣な行為です。また、盗みも同様です。自分は得をした気になるかもしれませんが、相手を不幸にするとんでもない犯罪であり、人間としてあるまじきことです。

  3 「三度注意して、改善の見込みが認められないとき」 口先の反省だけで、その場をのがれようとするのは、教師の信頼を裏切る行為です。注意を続けたにもかかわらず、同じ間違いを繰り返すときは、きつく叱ります。子どもによっては、教師が怒りをあらわにしないと、耳に入らないこともあるのです。

    私は若いころからこの3つを一貫して「叱る基準」にしてきました。そして子どもたちには、「この3つについては、先生は絶対に譲らないぞ。もし守れなかったら、厳しく叱るからな」と前もって告げるようにしました。はじめから「叱る基準」を明示されていると子どもは叱られたとき、先生が私情で怒っているのではないことが理解できます。